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創立60周年記念事業

      

  

■初代校長 齋藤隆一先生     

 本校正面入り口の右側に鎮座する銅像。それが初代校長齋藤隆一先生。

 現代の理容店で使われている角度櫛や電気アイロンの考案。また、西洋理髪の器具である、レーザーを日本人に合う大きさに変えたり、様々なレーザーを考案。さらに、大正天皇侍従職嘱託大正天皇 御髪奉 (おぐし ほうどうやく 拝命 されるなど 近代理容の父とも言われ、現在の理容カット技術理論を確立された先生です。

  

  

  

■戦後の理容業界

   

 理容業界は戦前・戦中を通じ永い間、官憲の監視下にあり、苦しい生活に甘んじてきました。それは当時指導と監督に当たった警察官僚の業界に対する無理解と、業者自身の無自覚が原因であったと言われていました。旧来の因習を打破してすべてを民主的に、業界の向上発展を図るには、戦後はまたとない絶好の機会でありました。

 

 理容業界の明敏なる先覚者は、この機会を逃すことはせず、昭和21年に全国理容連盟を創立し、初代理事長に大阪の池田重吉氏を選出。

 

 この年の9月には、理容師の向上には教育こそが最善であるとし、教育委員会を設置。その初代委員長に齋藤隆一先生が全理連より委嘱されました。

 そして、全国の理容師の育成には、全理連直結の指導員を養成し、全国の講師陣を作って近代技術の普及・徹底を図るのを目的とし、全国での指導員講習会を実施することとなったのです。

 

 その後、理容師の技術の研究練磨が何より大切と考え、昭和23年11月1日に第1回「全国理容技術選手権大会(後の全国大会)」が東京神田の共立講堂で開催。審査委員長に斎藤隆一先生が選出されました。

 講師が全国各地へ出講していた講習会から、昭和25年2月6日、業界待望の中央高等理容学校(現在の中央理美容専門学校)の第1回師範科講習が開催されました。

 

 そして、初代校長に斎藤隆一先生が全理連より委嘱されたのでした。

 

 (全国理容中央学園発行「全国理容中央学園35年史」より)

    

本科第1期入学試験で面接する
左から、斎藤隆一、大久保新二、米倉近
齋藤隆一先生(昭和29.4.2)
加藤忠一、加川荘三郎の各先生

 
  

 

■年表(参考:日本理容技学建設会発行「理容技学全集」より 一部省略、また加筆しております)

齋藤隆一先生
                                       
1884年 明治11年 6月2日 旧津軽藩士族 訥磨(としまろ)・キクの三男として、弘前市元寺長
26番地で(戸籍名「小三司」)生誕。
父は米屋、祖父は津軽藩鉄砲組組長、兄弟は男5・女3人
 
1898年  明治31年 (14歳) 青森県弘前市の秋田岩太郎氏の徒弟となり、理容業に入る給与は
米2斗、衣服、小遣いは親の負担で3年契約
 
1901年 明治34年 (17歳)

弘前市松森町に見事な西洋理髪店を独立開業 繁盛する
 
1902年 明治35年 (18歳) 店を貸し単身上京。上野桜木町永松理髪店(谷中6丁目の
「SimpleHair」現在は3代目の永松康雄氏が店主)に入店
 
1904年 明治37年 (20歳) 徴兵検査のため帰郷。その際に弘前市駒越に椅子2台の店を開店
する
 
1905年 明治38年 (21歳) 再度上京、上野桜木町の永松氏の紹介で、本郷西片町加藤
助次郎店入店
 
1906年 明治39年 (22歳) 加藤家長女と結婚
  
1908年 明治41年 (24歳) 桜田本郷町の大場理髪店本店に3年契約で入店。大場秀吉
(ひできち)氏に師事。夫人と死別。翌年加藤家と離縁

 

1909年 明治42年 (25歳) 大場理髪店横浜グランドホテル店の主任となる。その後、西洋理髪
第一人者である大場勘之助氏の住居である巴町店主任を務める
この時期に勘之助氏に直接指導を受ける

    

1910年 明治43年 (26歳) 本店主任を務める。美髪会アーティスト講習の講師を拝命 
  
1911年 明治44年 (27歳)
芝区西久保巴町の大場支店を譲受け、独立開業
久邇宮家並びに東久邇宮家へ伺候。宮家へ出仕のため組合の行政
活動からは退き、以後業界教育に専念。石神麻と結婚
 
1917年 大正6年 (33歳)

大正天皇侍従職嘱託 大正天皇御髪奉導役(おぐしほうどうやく)
を拝命、大正13年まで勤める
宮内省御髪役の黒田子爵より「瓜実顔の御顔には如何なる髪型が
最もよろしきや」との御下問に対し、「顎の線を頭髪上にも表し、上下
とも に相対的になるのがよろしいかと」と言上申し上げたことに端を
発し理容設計学の研究に着手
  
  
1920年 大正9年 (36歳) 有楽町実業之日本社向い角ビルの3階に開店

 

1923年 大正12年 (39歳) 関東大震災で店舗が全焼する
  
1924年 大正13年 (40歳) 東京理髪学会技術研究会設立。会長となる。アイロンによる仕上げ
大流行
 
1925年 大正14年 (41歳) 電気アイロンを考案
  
1926年 昭和元年 (42歳)

頭髪設計法の学問的構想を完成し、設計学に基づくアイロン仕上げ
技術を東京、関東、大阪で行う
大阪出講の折、技術者の健康のため、あらかじめ研究考案した理容
体操もあわせて発表
   
1927年 昭和2年 (43歳)


文化アパート内に理容部3台、婦人部2台 水野錬太郎文部大臣
から教員
免許を受ける
本郷お茶の水に開店お茶の水に文化理髪学院設立

大日本理髪学校教授に就任

 

1928年 昭和3年 (44歳)

御大典記念理容技術競技大会を開催、大会委員長を務める

報知講堂にて関東では初の競技会。審査委員長には山下隆弘氏

大日本理髪学校教員に就任

 

1929年 昭和4年 (45歳)

左方10°~45°までの角度範囲のものについて、角度櫛の特許
認可
レーザー刃角度の研究から、ホーニングサックを考案

 

1932年 昭和7年 (48歳) 理容設計学を東京九段の軍人会館の於いて発表する
  
1933年 昭和8年 (49歳) 戦前における第1回全国理容技術選手権大会の副審査委員長を
務める。
審査委員長は山下隆弘氏

 

1934年 昭和9年 (50歳)
渋谷東横デパート内に理髪室を開店

理容設計学並びに観測法上梓

 

1935年 昭和10年 (51歳)


目黒区祐天寺に開店

京都新京極に東京スタイルの店を開店

神戸の西浦騎鶴氏主催の第1回大学講座が開かれ、出講。以来、
毎月1度は
神戸芸美会へ指導に行く

  

1936年 昭和11年 (52歳)
目黒駅2階に開店、流行にさきがけて電髪(パーメネント)を導入

軽井沢に夏期オープの店を開店

  

1937年 昭和12年 (53歳)

中野鍋屋横町東横店内に開店。この時までに理容4店、美容2店
椅子総数50台、従業員70余名

レーザー技術読本上梓

 

1941年 昭和16年 (57歳)
神戸芸美会から胸像を贈られる。 麻婦人死去。

胸像贈呈記念に六大都市技術発表会が神戸勧業会館において
開催

東京代表  米倉 近

横浜代表  加藤 忠一

名古屋代表 立松 国二

京都代表  山下 豊松

大阪代表  笈田富次郎

神戸代表  田口宇三郎

 

1945年 昭和20年 (61歳) 渋谷東横店をはじめ、ほとんどの店舗が戦災で焼失。戦災を免れた
目黒店で営業を継続

 

1947年 昭和22年 (63歳)
目黒区三谷町に居住

全国理容連盟教育委員長に就任、教育委員は米倉近、加藤忠一、
名取昇、
加川荘三郎、大久保新二、松村重貴智の各氏

 

1948年 昭和23年 (64歳) 第1回全国理容技術競技大会審査委員長を務める。以来15回まで
委員長
 
1949年 昭和24年 (65歳) 鋏の不動柄の設計発表、櫛の調整法発表、剣型鋏発表、短身レー
ザー発表
 
1950年 昭和25年 (65歳)



全国理容連盟立中央理容学院創設(現中央理美容専門学校)
初代校長
に就任

指導者養成の目的のため、斎藤会を発会させ自ら会長となる。

20°22°24°の刃角レーザー発表。ぼかし専用襟付櫛を開発
 
 

1951年 昭和26年  (67歳)
厚生省指導、理容文化社制作の「モデルバーバー」に主演

レーザーの研究を発表

 

1952年 昭和27年 (68歳)
理容文化誌上「斎藤講座」執筆。以後12年余142講に及ぶ

ロング、ハーフロングのカティングシステムを発表

 

1953年 昭和28年 (69歳)
大田区北千束に転居

アイロンの研究発表45°アイロン及びアイロンの柄(RS式)の改良

 

1954年 昭和29年 (70歳)






古希祝賀大講習会が渋谷公会堂に於いて開催される。斎藤会の
支部が各地
に結成され、北海道から九州まで36支部、会員3000名
に及び、全国の指導にまわる

12月に高等理容学校校長勇退、名誉校長となる
2代目に米倉近就任

ダブルコンケーブレーザーを発表

技術と呼吸について発表

 

1956年 昭和31年 (72歳)



目黒店が渋谷に移転するのに伴い、営業活動から引退

第9回全国理容技術競技大会京都大会にて競技会審査法を確立
し、理容
観測法による八方審査法を発表

シェービング対皮45°論を発表

ストラップの新設計発表
  

1957年 昭和32年 (73歳)


大田区千束の自宅に講技館道場を開く

業歴60周年記念大講習会が原宿修養団に於いて開催

アールブレードレーザー発表。後に角度櫛とともにオリジナル器具と
して
ドイツ理美容博物館に収蔵される

  

1958年 昭和33年 (74歳)


フォーマルアイロン運行システム発表

大荒櫛と襟付櫛の設計を発表

東京同組協議会に斎藤杯を贈る

  

1959年 昭和34年 (75歳)

理容技術における呼吸と強・弱・軽について発表。

指触観測法(原型観測法)発表

伊勢湾台風被災同業者救済講習会を名古屋文化会館にて開講
(出講)

  

1960年 昭和35年 (76歳)



湘南鵠沼に転居

喜寿祝賀記念大講習会が千駄ヶ谷区民講堂にて開催

連続刈技術及び櫛の発表

斎藤会第1回全国理容技術競技会を千駄ヶ谷区民講堂にて開催

ブロースカッティングシステム発表

  

1961年 昭和36年 (77歳) 6月に斎藤会を日本理容技学建設会に改称、会主となる

会長に吉田善七氏

 

1962年 昭和37年 (78歳) ミディアムヘアアイロン運行システム発表
 
1963年 昭和38年 (79歳) 櫛の調整法を改良発表。第1・2・3荒櫛調整法を確立。
 
1964年 昭和39年 (80歳) 業績を記念し、中野区中野3丁目48番目23号に斎藤会館
を建立される
  
1965年 昭和40年 (81歳)

スカルプチュアカットカッティングシステム並びに櫛、30°レーザー
発表

ロング・ミディアムのカット改正運行システム発表
   

1966年 昭和41年 (82歳) 全国理容連盟立中央高等理容学校(新宿区)に胸像建立される。
胸像制作は
門井俊夫氏

 

1968年 昭和43年 (84歳)
勲五等雙光旭日章叙勲の栄に浴す
アイロンオールバック運行システム発表
    
1969年 昭和44年 (85歳) ブロースカット改正運行システム発表
    
1971年 昭和46年 (87歳) 鋏研磨法を改正発表。
    
1972年 昭和47年 (88歳)
1月25日 鵠沼の自宅にて逝去

追位正六位を受ける

  

1984年 昭和59年
生誕100年記念祝賀会を東京新宿京王プラザホテルにて開催

併せて斎藤技学の集大成である「理容技学全書」を記念出版

  

2009年 平成21年       生誕125年 全国理容中央学園のHPにて先生のページが出来る